自由が怖い
丁寧に作られた酒はうまい。基本の基本のキの字をおさえることを繰り返し、派手さはなくとも、大事なところは絶対に外さない。そうやってできた酒は強く、深い。そうだな、まるで「磐城壽」の山廃のように。
基本の積み重ねの上にこそうまい酒はある。そういう酒だからこそ、冷やでも熱燗でも常温でもうまいのだ。そして、料理のうまさを引き出してくれる。サボらない。手を抜かない。基本の基本のキの字の、そういう地味な仕事が一番難しい。
今日から無職になった。
エイプリルフールの話じゃない。ガチで。無職というとアレだな。なんというか無定職というかフリーランスというか、いちおう少しずつ仕事を引き受けつつある感じで、それは増えていく予定ではある。まあ、近いうちに何とか前職と同じくらいの収入にはなるんじゃないかなとか思ってるけど、どうなるかはわからない。
フリーになってみて初日に感じるのは、言うほど自由じゃないということだ。サラリーマンの時より、そりゃあ時間的な制約もなければ、別に仕事しなくてもいいし娘と一日中バブバブしていられる。けれど、以前に比べてとても小さなことが気になるようになった。何と言うか、身なりや言葉遣いや、そういった類いの。
今日は一件営業案件というか打ち合わせがあったのだけど、前職時代にはほとんど着なかったワイシャツ&ネクタイ&ジャケット&革靴である。まあ当然と言えば当然だし、別にそこまでカチっとしなくても気にしないお客さんも多い。でも、何となく、キチっとしておかないと「運が逃げるんじゃないか」とか、「バチ当たってどこかでヘマこくんじゃないか」みたいなことを感じる自分がいた。
おととい「丁寧な暮らし」について書いた。ぼくたちは怠惰な生き物である。コマいところをキチっとしておかないと、後々大きなほころびになったり、収拾つかないほどの大きな穴になってしまう恐れがあることをぼくたちはよく知っている。だから、自分の暮らしの足下を見つめ直すような「丁寧な暮らし」は、ファッションでもオシャレでもなんでもなく、何より自分の心の修練なのだと。そんなことを書いた。
これからは、いろいろなものが全部自分に跳ね返ってくる。これは怖い。
というか、これまでもそうだったのだろう。いろいろなものに甘え、あるいは依存して生きてきて、それはぼくたちの暮らしに全部跳ね返っていた。それは見えていなかっただけ。大きく跳ね返ってきたときにようやくわかるものなのだ。
昔の人たちは、バチが当たるとか、運が逃げるとか、そういう言い方をした。まあ、そんなことはきっと迷信に過ぎないのだろう。けれど、自分の店の前を掃き清めたり、何かをきれいに揃えたり、神棚の水を替えたりするのも、まさに修練なのだ。意味がないのではない。わかりにくいけれど、血肉になっているということなのだ。
生活もそうだろう。部屋を掃除する。モノを大事に使う。あったものをもとにもどす。あれやこれ。基本中の基本のキの字。
ぼくは根本がダラシのない人間なので、そういうことは超絶適当に済ませてきたのだけれど、たぶん、そういう小さなことを適当にやっていくと、商売の神様も寄ってこなければ、大きなミスを犯し、妻にも子にも逃げられる。ああ、そんな将来が見えるようで怖い。
そう、怖いんだな。
自立しようとすれば、ヘマは全部自分に返ってくる。自由の身になれば、多くのことは自分の責任だ。それでも、それが自分で立つということなのだろうと思う。特別なことは何もできない。ただ、基本の基本のキの字を繰り返し、足下を見直して、問題に気づいたらそれを細かく修正していくしかない。そしてそれが一番難しい。
きっと自由になるというのはそういうことなのだろう。とにかく無様なのだ。そのあたりのことに思い至ったというのが、初日の今日の収穫と言えば収穫かもしれない。
明日はうまい酒が飲めるだろうか。
(終)