ぼくは母親になりたい
昨年の9月に生まれた娘が、どうにもこうにもかわいいのである。愛おしい。
そしてその愛おしさは、生まれた日から毎日最高値を更新しているといったありさまなのである。生まれた日が100だったとしたら今は250くらいだろうか。娘が20歳になったときには800000くらいにはなっているだろう。ぼくは膨らみ続ける愛に押し潰されて死んでしまうかもしれない。
抱っこしていると、とてもいい匂いがする。太ももの柔らかさ、お尻のつるすべもちもち感は極上である。ほっぺからあごにかけての、あのたぷたぷとした肉に鼻をグイグイ押し付けて、気が済むまでクンクンしているときの至福。どんな美食も、どんな風光明媚な観光地も適わない、幸せの極致。
しかしそれでも、どれほどぼくが娘を愛していようとも、娘は母親を求める声を発する。妻が娘を抱っこする様はまさに聖母マリアのそれで、正直神がかっているとすら思える。母親でなければ泣き止まないときも当然ある。
ぼくだって娘を愛しているのに、なんなんだろう、この差は。不公平だ。母親というだけで、これほど対応が違うのはずるいというものだ。(最近は抱っこしても「お前じゃない」みたいな感じのリアクションされるし)
ちょっと変な話なのは自覚しているのだが、
娘を抱っこしたり、一緒に添い寝したりしていると、たまに娘と一体化したくなるときがある。体の中に取り込みたくなるというか、ひとつになりたいと思ってしまうのだなあ。変かなあ。
しかしぼくはどうがんばったって妊娠することはできないし、腹を痛めて子どもを生むこともできない。ほんの1年前まで、へその緒1本で娘とつながっていた妻の足下にも及ばないのである。結局、オスなんてもんは無力だ。オスのカマキリと一緒で、最後はすべてダシに使われてメスの胃の中に収まる。悲しすぎる。
ああ、ぼくは母親になりたい。
母親の、あの慈愛に満ちた存在になりたいのだ。父親では無理なのだ。
ぼくにだって母性はある。まだお風呂に入れるのは得意ではないけれど、離乳食だって作るし、お散歩にも(時間があれば)毎日だって行けるし、抱っこするのは得意だし、一緒に遊ぶのだって喜んでする。そもそも、妻に負けなくくらい娘を愛している。
母親は腹を痛めて生んだから偉い? そんなはずはない。ぼくだって妊娠できるもんなら妊娠してやるし、どれほど腹が痛くても耐えてやる。それなのに、母親は、子を生んだだけで、母親なのである。母親ずるい。でも、母親すごい。母親は偉大だ。
偉大なる母。ああ偉大なる母。
母親には適わないということを知るために、子育てするようなものだ。ああほんとうにそうだ。父親とは本当にちっぽけなものだ。だいたい、母親の苦労も知らず、母親になりたいだなどと語っている。ぼくという父親は本当にちっぽけなものだ。